快光院の観音堂に安置されているのは聖観世音菩薩像です。こちらの観音菩薩像は、当寺第八世観誉辨義上人が18歳(1741年)で関東へ修学した際に、25年間の在東中、恵信僧都源信作と伝えられる木造の聖観世音菩薩立像に巡り合い、これをもらい受けたました。25年間の修学を終えて帰ってきた八世観誉上人は、当時地蔵堂出あった御堂に聖観世音菩薩像を安置しました。この時から、観音堂と呼ばれるようになりました。

その後、天明三年(1783)に下新丁より出火した大火(みそごめ大火)が、快光院にも及びました。観音堂も類焼し、聖観世音菩薩像の厨子には焼けた痕跡が残っていますが、幸いにも尊像本体は無事でありました

寛政四年(1791)に起こった大地震、それに伴う大津波(島原大変肥後迷惑)の際には、島原、そして対岸の熊本合わせて15000人もの死者が出ました。快光院もこの被害に遭い、大津波の折、本堂・庫裏が壊滅状態となりました。しかし御堂は無事で尊像は一時堂外へ流されましたが、お隣の祟台寺境の竹林にかかって流亡を免れました。

天保七年(1836)、下新丁出火の大火で本堂・庫裏・観音堂が再び類焼し全焼するという大きな被害に見舞われました。しかし、この観音像は火の手から免れ無事でした。。

以来、この再三の火難水難を免れた観音様として、今もなお崇められています。