高力家概説

高力家の先祖は源頼朝の御家人で、「平家物語」にも登場する熊谷直実と伝えられています。

熊谷次郎直実(1141〜1207)

熊谷次郎直実は武蔵国大里郡熊谷郷(現在の埼玉県熊谷市)の出身。父直実の時代から大里郡熊谷郷の領主となり、熊谷を名乗る。

治承4年(1180年)の石橋山の戦いまでは平家側に属していたが、以後、源頼朝に臣従する。

寿永3年(1184年)2月の一ノ谷の戦いでは、源義経の奇襲部隊に所属し、平家の平敦盛を討ち取る。これは「平家物語」「敦盛最期」の段における平敦盛との一騎討ちとして取り上げられるなど有名なエピソード。

しかし、直実は自身の子供と同年代の敦盛を討ったことに無常を感じ、後に法然上人のもとで京都の黒谷金戒光明寺で出家する。

直実より15代目の重長になってから、三河国高力郡(現在の愛知県額田郡幸田町)に住み、高力氏と名乗り始めたようです。
重長はそこで家康の祖父松平清康に仕えたといわれています。

その後、重長の孫にあたる清長(きよなが)のとき、天正18年(1590)徳川家康が江戸へ入封した後に清長は武蔵岩槻(埼玉県さいたま市)に入封しました。

高力河内守清長(1530~1608)

清長は父安長を6歳にして亡くしたため叔父重正に育てられました。

その後、徳川家康に仕え武功を重ねていきました。家康が永禄8年(1565)に三河を平定した際には、「三河三奉行(岡崎三奉行)」の一人として登用されました。清長は政治にも明るく、廉直で誠実な人柄であったため、人々から「仏高力」と呼ばれていたと伝えられています。天正8年(1580)年に遠江馬伏塚(まむしづか)城主、同10年(1582)年には駿河田中城主となりました。また同14年(1586)に豊臣秀吉の奏上により、清長を従五位下に叙し河内守に任じ、豊臣性を授かりました。

その後、天正18年(1590)徳川家康が関東へ入国したことをきっかけに、清長は岩槻に移り、岩槻城2万石を与えられ、浦和筋1万石の蔵入地も預けられました。

慶長13年(1608)1月26日享年79歳でこの世を去りました。戒名は快光院殿廓誉道鎮大居士。

清長には正長という子がいましたが、慶長4年(1599)に清長に先立ち42歳でこの世を去りました。

正長の病没のため、正長の子で清長の孫忠房(ただふさ)が高力家を継ぐことになりました。

高力摂津守忠房(1584〜1655)

忠房は正長の長男として遠江国浜松で生まれました。父正長が死去した同年、忠房は15歳で元服し徳川秀忠に仕えるようになりました。慶長13年(1608)年に祖父清長の死去により高力家を継ぎます。妻は真田信之の娘まん。真田信之は真田昌幸の子で、真田幸村の兄にあたります。

慶長5年(1600)関ヶ原の合戦では秀忠軍に従軍しました。慶長10年(1605)、秀忠が将軍宣下のため上洛したときには近臣として供奉し、慶長19年(1614)の大久保忠隣改易の際には、小田原城の受け取りを担当しました。また同年11月の大阪冬の陣では秀忠に従軍し、翌年5月の大阪夏の陣では土井利勝に従って参戦しました。

元和3年(1617)に奏者番となり、元和5年(1619)に遠江浜松に加封され浜松城と3万石が与えられました。

寛永15年(1638)3代将軍徳川家光の命により、史上最大規模の一揆である島原・天草一揆(島原の乱)の戦後処理のため肥前島原4万石へ移封されました。忠房は、島原の乱後、荒廃していた島原を復興させるために農民に対して年貢の免除、移住民の受け入れ、寺社の建立や再興を行い家光の期待に応えました。また忠房はただの島原藩主の役割だけではなく、天領長崎の警備や西国外様大名の指揮と行動監視という任務も併せ持っていました。

明暦元年(1655)参勤交代で江戸から島原へ戻る途中に京都で死去。享年72歳 戒名は禅林院殿傑岑道英大居士。

忠房がこの世を去った後に島原藩主となったのが忠房の子隆長(たかなが)です。

高力隆長(1605〜1677)

隆長は忠房の長男として生まれました。明暦元年(1655)父忠房の死去により、島原藩主となります。

しかし隆長の失政により、寛文8年(1668)に改易となり仙台へと移されました。これにより、高力家の島原藩主としての時代が終わりました。隆長はその後、仙台藩で最期を迎えました。戒名は清光院善空蓮哉居士。

隆長は家臣8人とともに島原から仙台へ向かいました。その時、父忠房の遺骨が入った仏像(禅林寺本尊)と祖父真田信之の位牌もともに持っていきました。しかし、仙台までの長い道のりを思い、隆長公は、その仏像と位牌を佐賀県鹿島市にある曹洞宗の宝聚寺へ預けて菩提を弔うことにしました。この時、家臣の1人である松本又右衛門が隆長公の願いを受けてその地に土着し、そのお寺を再興して中興開基となりました。